


「総力戦研究所」入所式1941年(昭和16年)4月1日。中央に近衛文麿首相。

総力戦研究所
<戦後80年に寄せて>
先の大戦の終結から、80年が経ちました。
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第一次世界大戦を経て、世界が総力戦の時代に入っていた中にあって、開戦前に内閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測によれば、敗戦は必然でした。多くの識者も戦争遂行の困難さを感じていました。 政府及び軍部の首脳陣もそれを認識しながら、どうして戦争を回避するという決断ができないまま、無謀な戦争に突き進み、国内外の多くの無辜の命を犠牲とする結果となってしまったのか。
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令和7年10月10日
内閣総理大臣 石破 茂
■総力戦とは第一次世界大戦をきっかけに明確化してきた新しい戦争形態であり、戦争が軍事行動に限定されず、国家の政治・経済・産業・思想・外交・国民動員を含むあらゆる資源が統合される形で遂行される現象であり、両大戦間に主要国はこのグローバルな潮流に自国の社会・経済システムを適応させることが国家安全保障上必須として、1920年代から30年代にかけて研究機関を次々に設立した。英国に始まり、仏、独等が続いたが、我が国においては欧州において武官等として勤務していた陸軍の中堅将校たちにより提唱され、大分遅れて1940年に内閣総理大臣直轄の総力戦研究所が創設された。
(森松敏夫「総力戦研究所」芹沢紀之「ある作戦参謀の悲劇」)
■その目的は、官民横断型で我が国の宿痾ともいうべきセクショナリズムを克服しつつ、将来の官界・民間の指導者を教育すると共に、総力戦を研究する組織とされた。文民組織であり、目的は作戦立案ではなく、政策判断の前提となる国力を分析する日本初の国家戦略研究機関であった。1941年8月の対米戦の机上演習が注目を集めたが、同時に日本における社会システム・ゲーミングの先駆とも位置付けられている。その他の総力戦に関する政策研究、研究生に対する教育・訓練をも忘れるべきではない。
(栗屋・中村「総力戦研究所関係資料集」解説、市川新「総力戦研究所の演練」)
日本における社会システム・ゲーミングの創始:総力戦研究所の演練
(市川 新)
<抜粋>
総力戦研究所は,当時,いわば世界最高水準にあった政策科学大学院大学であったことは間違いない.英名がTotal War Research Institute であるから,アメリカの文献でも日本軍の機関とされている.先進各国は,軍所属研究所の名称として,この種の名称を使っているので,誤って理解された一因になろう.総力戦研究所では,教育方法として演練が採用された.特に机上演習(政策ゲーム)は,長い間,日本の社会システム系研究者による研究が行われていないために,その環境と構造の関係は不正確な状態であることには今も変わりない.基本的に敗戦時に重要な部分が焼却されたといわれ,また連合軍に接収され,特にアメリカ軍によって原資料と英訳版とともに持ち去られた.そして,かなりの年数後に日本側の法務省に返却されつつあるが,それらが公文書館や防衛研究所などにほぼ公開されている.


机上演習の構造


統監部の構造
